そうだ!高田馬場行こう!って思ってくれる人を増やすのが目的の高田馬場情報サイトです!

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高田馬場(たかだのばば・たかたのばば)とは
1. 東京都新宿区の町名。一丁目から四丁目まで存在する。
2. 東京都新宿区にあるJR山手線・西武新宿線・東京メトロ東西線の高田馬場駅周辺の地域。
3. 江戸時代初期に幕府によって造られた馬場。現在の東京都新宿区西早稲田三丁目にある史跡。
4. 古典落語の演目の一つ。武士の決闘・仇討ちを皮肉った噺。
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馬場は馬場でもジャイアント
ジャイアント馬場(ジャイアントばば、本名:馬場 正平(ばば しょうへい)、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、日本の男性プロレスラー。新潟県三条市出身。全日本プロレス元代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。

プロレスラーに転向する以前は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)であった(そのため、日本プロレスのエース時代、TV中継でアナウンサーが意図的に「ジャイアンツ馬場」と呼んでいた事がある)。

第49・55・57代NWA世界ヘビー級王者(日本人としては初の世界タイトル奪取)。第3・5・7代インターナショナル・ヘビー級選手権者。初代・5・7・9代PWFヘビー級王者。第6代アジアヘビー級王者。全日本プロレス創立者。血液型O型。身長209cm(読売ジャイアンツ時代の発表は203cm)、体重135kg(全盛期は145kg)。リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークの大プロモーターであったビンス・マクマホン・シニアが「ババ・ザ・ジャイアント」と命名したことに由来する。1999年1月31日、生涯現役のまま逝去した(逝去後に引退セレモニーが執り行われた)。

日本のプロレス界では力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネーム。日本プロレス史上最大の巨体を持ち、CMやテレビ番組などでも人気を博した。

* 新潟県の三条実業高校野球部出身。在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球・読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59。新潟県第1号のプロ野球選手だったということもあり、将来を嘱望されていた。長嶋茂雄とは、「馬場ちゃん」と呼ばれるほどの親友であり(プロ入りは馬場のほうが先だが、年齢は長嶋のほうが上)、長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。
* 1959年オフ、二軍では最優秀投手を取るほどだったのにもかかわらず、巨人を自由契約になり(一軍での通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。唯一責任投手となった1敗は杉下茂の200勝達成試合でのもの)、1960年、大洋ホエールズの練習生としてキャンプに参加した際、採用内定は出ていたものの、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め、野球を断念し、現役を引退。
* 1960年4月には日本プロレス(日プロ)に入団、力道山の元に弟子入り。力道山からは特別可愛がられた。新弟子の中で唯一給料を貰い、アパートから道場に通っていた。同年9月30日デビュー。その後何度かアメリカに渡り、数々のタイトルに挑戦する。アメリカ時代のリング名は、当初は本名の馬場正平(ショーヘイ・ババ)であったが、「フランケンシュタイン・ババ」、「ビッグ・ババ」、「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なリングネームがあった。アメリカでは、大舞台でのメーンエベントの試合も多く、当時は大変な知名度があったとされる(その為、『日本人として初めてアメリカで成功したレスラー』と言われている)。アメリカではヒールとして活躍し、米レスリング専門誌『レスリング・レビュー』では、生傷男ブルーザー、殺人狂コワルスキー、東洋の悪魔ババとして、世界三大悪党と並び称されるようになった。アメリカでの師匠は、フレッド・アトキンス(後にタイガー・ジェット・シンもアトキンスの指導を受けている)。1964年2月にはNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の三大世界王者に連続挑戦した。
* 1963年力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。その際、マネージャーだったグレート東郷から、高額の年俸を保障するのでアメリカに定住するように勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。それ以外にも、アメリカでの生活で、売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦に陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも、自分も同じようになった時の事を考えて断ったという理由もあった。
* 1965年頃には既に日プロのエースとなり、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。吉村道明や坂口征二、さらにはアントニオ猪木とのいわゆるBI砲タッグでインターナショナル・タッグ王座を獲得するなどの活躍を見せた。
* 1972年10月に日本テレビの後押しで全日本プロレスを旗揚げ。
* 1974年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って獲得している。
* 1980年4月、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。

記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント。直後の、1981年1月には「ジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合」を開催。バーン・ガニアとの間で自身の保持するPWFヘビー級王座とガニアの保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行う。結果は3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛。

* 1984年4月、ハンセン・ブロディ組のツープラトン・パイルドライバーで首を痛めて次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップ。
* 1985年7月、スタン・ハンセンに敗北し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退く。以後は社長業やタレント業に比重を移しながらも前座としてリングに上がり続けた。
* 最後にリングに上がった1998年12月5日までで、通算5769試合を行った。
* 1999年1月31日、東京医大病院にて、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全により死去、61歳没。妻・元子の意向により外部には命が危ないことを一切漏らしておらず、最期を看取ったのも妻の馬場元子、姪の馬場幸子(全日本取締役)、実姉のほか、レフェリーで運転手の和田京平と秘書の仲田龍のだけであった。このことは、当時役員だったジャンボ鶴田やエースでマッチメイカーの三沢光晴、全日本の重鎮だったジョー樋口にさえ知らせていない。戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。4月17日に日本武道館でファン葬が催され、3万8000人が参加した。
* 同年5月2日東京ドーム興行にて「引退記念試合」を行う。ジャイアント馬場、ザ・デストロイヤー組×ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組という設定で過去の馬場選手の対戦シーンを編集したビデオ上映によるセレモニー。馬場以外の三選手は実際にリングに登場し故人の勇姿を見守った。

恵まれた体躯を生かし、主に、相手のロープの反動を利用したカウンターキックである「十六文キック」をはじめ、「空手チョップ」「河津落とし」「ココナッツクラッシュ」など、長身からの落差と重力、相手の力や体重を利用した技を得意技とした。

十六文キック
ジャイアント馬場の代名詞的な技。ロープに振った相手が反動で返ってくるところにカウンターで蹴りを叩き込む。時には自ら走りこんで蹴りを当てていくこともあった。全盛期は見た目も威力も必殺技としての説得力を十分に兼ね備えていた。しかし、実際に足のサイズは十六文もなく、語呂の良さから十六文にしたという説と、アメリカで購入した靴のサイズ表記が16となっていたためという説がある。左足で蹴るのはプロ野球時代の名残だが、若い頃は右足で蹴ることもあった。坂口征二やジャンボ鶴田とのコンビでは肩を組んでダブルのカウンターキックをよく出していた。アメリカ修業時代のタッグマッチで、パートナーだったスカル・マーフィに「お前もキックだ」と言われた際、反射的に左足で蹴ったのが技のきっかけとのこと。

32文人間ロケット砲
若手時代に使っていた技。ほかのレスラーも使うポピュラーな技、いわゆるドロップキックなのだが、日本人プロレスラーとしては、突出して巨体であった馬場限定の称され方であった。フォームとしては、やや下方から上方へ突き上げるような形で繰り出す。

河津落とし
河津掛け落としとも。もともとは相撲の技で、相手の投げを堪える「河津掛け」が原型。力道山がルー・テーズのバックドロップ対策として披露したが、馬場は自分の片足を相手の片足に掛け、跳ね上げながら相手の首を抱えて後方に反って倒す技に昇華させた。

脳天唐竹割り
馬場の師匠でもあった力道山が得意としていた空手チョップの応用技。相手の頭部に垂直に振り下ろす。馬場が遠征中に泊まった旅館で、鴨居に頭をぶつけた時の激しい痛みから技を閃き、力道山に「敵の脳天に手刀を放とうと思うんですが」と相談したところ、「危険な技だ。相手が死んでしまうぞ」と制止されたエピソードがある。最初に脳天チョップを出したのはディック・ザ・ブルーザー戦で、初対戦でブルーザーのタフガイぶりにあきれた馬場が「ブルーザーならまあ死なんだろう」と解禁したという。手刀を叩きつける際に、まれに相手の頭部あるいは額を割り、流血させるほどの威力があり、相手の耳に落とす「耳そぎチョップ」という応用もある。子供たちの遊びで往年耳にする事があった、俗に言う「馬場チョップ」とはこの技の事である。ちなみに全盛期では大きくジャンピングしながら放つ場面もあった。

股割き(レッグスプレッド)
主に若手の頃に多用されていた関節技。相手の両足を掴み、股を強引に開かせることによって痛みを与える、単純明快な技。デビュー戦もこの技で勝利した(相手は田中米太郎)。

ランニングネックブリーカードロップ(首折り落とし)
ジャイアント馬場自身が考案し、日本人として初めて披露した技。若き日、ライバルであったドリー・ファンク・ジュニアに対して初めて披露した。ロープに振った相手が反動で返ってくるところに、自らも走りこんで首に腕を掛けそのままマットに叩きつける。ジャック・ブリスコやハーリー・レイスとのNWA世界ヘビーを初めとしてこの技で多くのタイトルを奪取した。

ココナッツクラッシュ(ヤシの実割り)
ヘッドロックのような体勢で相手の頭を抱え込み、膝に叩きつけながら前方に倒す大技である。「この技が出ると調子がいいんです」というテレビ解説が見られた。

アトミックドロップ(尾?骨砕き)
いわゆる尾てい骨砕き。全盛時によく使っていた技である。

アームブリーカードロップ(腕折落とし
相手の手首を掴みながら腕にまたがり、そのまま全体重をかけてマットに相手ごと落とす技。かつて上田馬之助とのシングルマッチにてこの技を連発し(6発打っている)、レフェリーストップに追い込んだ事がある。

サーフボードストレッチ(波乗り固め
相手の背後から仕掛ける。相手の両腕を掴み、背中の方で引っ張り上げて痛めつける。

コブラツイスト(アバラ折り)
馬場の隠れた必殺技。2mを超す長身の為に威力は抜群で、アメリカ遠征中によく使っていた。猪木の得意技だったが、馬場のコブラツイストに対抗するために猪木が卍固めを使い始めたという。1985年のPWF戦でタイガー・ジェット・シンからギブアップを取るなど晩年まで使い続け、「ジャイアント・コブラツイスト」などとも呼ばれた。

ドリル・ア・ホール・パイルドライバー(脳天杭打ち)
相手の頭を自分の股にはさみ、逆さまに持ち上げてそのまま脳天をリングにたたきつける技。

ジャイアント・ニードロップ
倒れている相手にトップロープから膝を落とす。全盛期のフィニッシュ技として好んで用いられた。

ジャイアント・ギロチンドロップ(レッグドロップ)
同じく全盛期のフィニッシュ技。倒れている相手めがけて膝裏を落とす。

ジャイアント・バックブリーカー(巨人式背骨折り)
馬場のオリジナル複合ストレッチ技。スタンディングで後方からコブラクラッチを決め、そのまま相手体を反らせながら自らの片膝をマットに付け、相手の背中を自らの片膝頭に押し付ける。

上記の他、脇固めなど寝技やスロートクロー(タイガー・ジェット・シンのコブラクローに酷似)などの「拷問技」も得意とした。足4の字固め、サイドスープレックス、スモールパッケージホールドなどの技も使っているほか、1965年頃にはジャーマン・スープレックスやパワースラムを使ったこともある。晩年は流行技やライバル・弟子の得意技をまねて用いることも多く、およそ馬場の技は外見上なんら変わりがなくとも冠に「ジャイアント」と付いて独自の必殺技としてファン・マスコミに認識された。「ジャイアントラリアット」「ジャイアントDDT」などはその典型例である。また、スタン・ハンセンとのタッグ時のみ限定で、十六文キックとウエスタン・ラリアートを組み合わせた「ジャイアント・コンビネーション(後述)」も披露した。アンドレ・ザ・ジャイアントと組んだ時は十六文からアンドレのエルボードロップ、ラッシャー木村と組んだ場合は十六文と木村のラッシングラリアットというコンビネーション(通称・十六文ラリアット)になった。

■その他のツープラトン技
ジャイアント・コンビネーション・A ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が十六文キックを叩き込む。その後、馬場が弱った相手を再度ハンマースルーし、そこにハンセンがウエスタン・ラリアートを叩き込む。

ジャイアント・コンビネーション・B
ハンセンが相手をハンマースルーし、そこに馬場が十六文キックを叩き込む。その後、弱った相手が振り返った瞬間に、ハンセンがウエスタン・ラリアートを叩き込む。Aよりも、技の回避が難しい。

めにゅ〜

高田馬場の概要


高田馬場の決闘


高田馬場駅


実はアトムの故郷


馬場は馬場でもジャイアント


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